自分の過去を探る

6月 3, 2004 1:30 pm Published by

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自分の過去を探ることは、現在のルーツを知ることであり、自分にしか持ちえない個性はそういった過去の地層から生まれるのだ、ということを何かの本で読んだ。

玉さんと駒沢公園で学生時代(今も学生だが)の事を話しているうちに、そんなことを思い出した。
過去の出来事を掘りだし、再考することで何が見えるか、考えていきたいと思う。

そこで、今日は幼稚園ぐらいの記憶を掘りだしてみたい。


幼稚園に入る前の自分は、食べることが嫌いなお子様だった。
母親は子供が食べやすいようなもの、好きなもの、を積極的に作るなど試行錯誤していたのではないか。
だが、幼稚園に入園し、昼食が弁当になったことによって、何かが変わり食べることが好きになった。
それはなぜか。
まず、食事の形態が弁当箱という、ひとつの容器内に様々な料理の種類が詰め込まれたものであること、
米がおにぎりになっていること、などがあげられるのではないか。
一見、無駄なことのように見える「遊び心」が食事に加わることによって、
食事=楽しい という図式が成り立つ。

それに加えて、家族ではない人たちとのコミュニケーションが存在する、という事も重要だったのではないだろうか。
「楽しい」という事へのこだわりは、この時期ぐらいから形成された気がする。

さて、本題。
以上の事項から何が見えてくるか考えてみる。ちなみに、この文章はあらかじめ到達点を設定していない。

弁当について

一つの箱を、焼き物、煮物、おにぎりなど、その食材の種類によって仕切り、全体を構成している。そして、かばんの中に入れて持ち歩くため、透き間があってはならない。それぞれの仕切りに食材がこれでもかと詰め込まれた構成になる。この詰め込まれ感、と多様な食材によって、ユーザー(自分だが)はお祭り感覚になるのではないか。
同じ弁当でも、各家庭によってクオリティの高低差はある。もし弁当を上記考察からお祭り感覚と同義として捉えるのであれば、クオリティは高ければ高いほど良い。つまり、テンションがあがるのではないだろうか。盆踊りを、踊れているということだ。白飯に梅干しだけでは、あまりにもストイックすぎる。クオリティの低い弁当は、祭り行列の最後尾にいるのである。
もちろん、何でも詰め込めば良いというものではない。弁当には弁当向きの料理があり、制作者にはそれを判断する能力が必要だ。どんなに美味くても、焼肉は野暮であるし、グラタンのような物も相当気を使わないといけない。また、小さいマヨネーズをガワに添付するのは野暮であるが、小さいプラスチックの魚(醤油が入っている)を弁当内に小粋に配置するのは気が効いていると言える。その点、タコさんウインナーは秀逸である。ウインナーの美味さと、「タコさん」の遊び心が同居した、奇跡の弁当食材と言えよう。

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